こんな狭い場所で親戚でもないヤツらと一緒にごちゃごちゃにされて増えもしないし減りもしないで他人に見られてばっかりでそれでも生きてることってなにか存在する意味があるんだと思う? ――簡単だ、君に見られるって意味がある。
毎日飽きもせずに七時ちょうどに起き、二十階の病室から一階までぺたぺた非常階段を下りて、清掃のおじさんにおはようございますと挨拶をしてアスマは玄関ロビーに行く。もちろんその時間、そこには誰もいない。面会時間はもっと先だからだ。 そして彼女はソファにどっかりと腰を下ろしてどこかのオッサンのように足を広げ、一日遅れの朝刊を隅から隅まで眺める。テレビ欄の深夜ニュースから東証株価、果ては総理大臣の些細な一言でさえ、一日遅れの情報なら、彼女の記憶に叶うものはない。最近は英字新聞にも手を出し始めたらしい。 とにかく朝日から産経から地方新聞まで一通りを読み終わると、アスマはそこでようやく視線を上げる。そして、 「今日も魚にバカにされて哀しそうね、ユウジ」 熱帯魚の水槽に生えている、彼女が僕の名前を与えた水草に、そう言ってにっこり笑いかけるのだ。 一度、なんで僕の名前なんだと抗議したことがある。すると彼女はあっさりこう言った。 「水草なんかにわたしの名前が付いてたら気持ち悪いから」 相変わらず、彼女のセンスはよくわからない。他人の名前は良いとでも言うつもりだろうか――むしろ僕はその言葉の中に、自分じゃなければなんでもいいという匂いを嗅ぎ取ったけれども。 それにしても、アスマは毎日毎日、昼間はほとんど玄関ロビーの水槽前に陣取っている。しかもそれは熱帯魚を見るためではない。ユウジという名前の水草を見るためなのだ。彼女が精神科に入院している理由の一端が、見えたような気がした。 「大体アスマ、水草なんて見てもおもしろくないだろ?」 「そんなことないわ」 これでなかなか楽しいのよ、と彼女は説教して見せる。 「水草を見てるとね、哲学をしたくなるのよ。ああ、ユウジはアレだから知らないかもしれないけど哲学というのは実に奥が深いもので、」 別に哲学にも水草にも興味はなかったが、そういうふうに喋るアスマはなんだか幸せそうで、そしてメチャメチャにクレイジーで、僕はだから黙って聞いていた。日が暮れるまで、――病棟のナースが僕たちを迎えに来るまで、ずっと。 そのアスマは、一週間前に自殺した。いや、自殺という言い方は正しくない。少なくとも僕の中では、それは実に巧妙な言い方でアスマの死を他人に誤解させてしまうものだったので、正しくなかった。 とにかく彼女は死んだ。ビルの屋上にある貯水塔の上から、僕の目の前で夏の大空にダイブしたのだ。 ちなみに僕はそれを止めるどころか黙って見ていた挙げ句、彼女を止めようと階段を駆け上がってきた医者や彼女の両親を閉め出すような真似をしたため、まぁ未成年なので罪には問われなかったが精神科に入院ということになってしまった。それはそれで悪くない。頭がおかしいとか偏見を言われてるここの連中だって、慣れれば愉快なヤツらばかりだ。 あまりに忙しい一週間だった。 ようやく暇になったその日、僕は気付くと玄関ロビーの水槽前に座っていた。 水槽の中では派手派手しい色の熱帯魚がひらひらと尾びれだか胸びれだかをゆらめかせ、ぐるぐると円を描いている。水草は、あまり元気がなかった。 「今日はあの女の子、いないの」 後ろから問いかけてきたのは、受付に座っているナースだった。水槽のガラスに、逆さまになった文字のネームプレートが映っていて、僕の目にはなぜだかそればかりが目に入った。 「はぁ。知りませんか。こないだ、自殺があったでしょう。ここの屋上から飛び降り自殺」 「知ってるよ。大変だったよねー、警察とか来ちゃって」 「ここにいた人、本名は知らないんですけど。飛び降りたの、彼女です」 「え?」 彼女のネームプレートを、僕はその時になってようやく読み取ることができた。森本、というナースだった。 「森本さんは、彼女を見てたんですか。受付で」 「うん――一度話したこともあるけど、そうか、君のことかアレは…」 森本ナースは休憩時間でもないのに僕の隣に腰を下ろし、そのアスマとの会話を僕に教えてくれた。それは、アスマが飛び降りる三日前のことだったという。 おかしなヤツがいて、と彼女は言ったらしい。 「おかしなヤツがいてね、森本さん。わたしが水草を見てるのを、別に自分は興味があるわけでもないんだろうに、ずっと見てるの。おかしいでしょ?」 でも話に付き合ってくれるから好き、とも言ったらしい。 「わたしがね――こんな狭い場所で親戚でもないヤツらと一緒にごちゃごちゃにされて増えもしないし減りもしないで他人に見られてばっかりでそれでも生きてることってなにか存在する意味があるんだと思う? って聞いたの。モチロン水草の話だけど。そしたらその子はね、簡単だって言ったのよ」 僕は僕の台詞を思い出した。簡単だ、確かにそう言った。君に見られるって意味があると、哲学の話ばかり聞かされて少し目の回っていた僕は言ったのだった。 森本さんは一通り話し終えると、すぐに誰か年上のナースに呼ばれて行ってしまった。だが彼女は去り際に、ふとこう問うた。 「そう言えば――あの子、水草に名前付けてるって言ってたけど。どんな名前だか知ってる?」 「知ってます」 「ふぅん、誰なのかなぁ、あの子が好きだったって男の子は」 「え」 森本さん、ときぃきぃ声に呼び立てられ、彼女は走って僕の前から消えた。僕には最後のやりとりについて、聞きたいことが山ほどあったのに。 ――ユウジ。アスマは僕のことをこう呼んだ。 ――ユウジ。アスマは水草のことをこう呼んだ。 それは、僕の名前だった。
「あれ、今日はあの男の子いないの? こないだ一緒だったのに」 森本はぼんやりと水槽を眺めていた、毎日同じ場所で水槽を眺めている少女に声をかけた。 彼女は億劫そうに顔を上げたが、森本が、いつも受付に座っていて時折彼女にも挨拶してくるナースだとわかると、少しだけ唇の端を持ち上げた。自分の隣に座るように森本にうながして、会話を始めた。 「いないの。アイツは今日は、外出日なのよ」 「ふぅん。――ねぇ、熱帯魚毎日眺めてて、おもしろい?」 「熱帯魚じゃないの、見てるのは。水草を見てるの、わたし」 「え」 「今、変な子だと思ったでしょ。わたし精神科だから」 「あ、ああ――そうなの」 「この水草ね、ユウジっていうの」 「名前付けてるのか、いいじゃない」 「わたしね――好きな人の顔とか、ちゃんと見て話せないから。話すのはできるんだけど、目が見れないの」 「日本人ってたいていそうじゃない?」 「そうかもね。でもいいの。わたし、彼の代わりに水草を見てるから」 「でも、水草は喋らないんじゃない?」 「ふふ。水槽のガラスにね、後ろにいる人の顔が映るの。ちょうど水草が生えてる辺り」 「あ!」 「彼はよく、わたしのちょっと後ろに座るから」 そう言って、アスマは幸せそうに、クレイジーな笑顔を浮かべた。
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