天使の名前



 つきんとした痛みが、彼女にふれた指先から伝わった。
やがてそれはじわじわと躯全体に広がり、気付いたら、ぶるぶると震えていた。
涙をこぼしながら呟いたのは、人の名前だっただろうか。
――彼女の、名前だったのだろうか。


 狭苦しい躯から心が遊離して飛んでしまいそうなほどに、青い空。それが眼前に広がっている。
 夏のくせにめずらしく雲のないその日、永遠の青を背景に、僕がアスマと呼んでいた彼女は立っていた。彼女の白いワンピースがぱさぱさと、やる気なさそうに風にあおられて音を立てている。
 ビルの屋上、二十四階。
貯水塔の上でぴんと背筋をのばした彼女は、製図用のコンパスのようでとてもきれいでもあり、また海原を泳ぎ回るイルカのように楽しそうでもあった。足下にはサンダルが、まるで子どものように脱ぎ散らかされていて、突風が吹けばころころと転がってしまいそうだった――サンダルも、彼女も。
「ハィ、ユウジ」
 なんのために彼女がここにいるのか、それすら一瞬忘れてしまいそうなほどいつもどおりに、彼女は軽く手を上げて僕に向けて微笑んで見せた。
「アスマ、そろそろ診察の時間らしいけど、どこに行くんだい?」
 屋上の入り口、ドアに躯をあずけて押さえ込みながら、僕もまた気楽にアスマに聞いてみた。後ろでは、なんとかして彼女を止めようとやっきになっている医者や彼女の両親が、どんどんとドアを叩きまくっている。僕はその振動を、背中に心地よく聞いた。
彼女は立ちっぱなしのまま、長い髪を指先で弄くっていた。
「天使に逢いに行くの」
 短く答えて、アスマはふふふと楽しそうに笑った。そしていつものように、僕に講釈を垂れ始める。僕はそれを聞くのが、とても好きだった。
「ユウジはアレだから知らないだろうけどね、この高さから飛び降りるということは、地面に辿り着くまでに三秒はかかるということなのよ」
 どうやらアスマは、数学とか物理にも長けているらしい。僕には落下速度の計算なんて、逆立ちしてもできない。大体、公式を知らない。
 話をする度に新たな特技を見せる人だ。賢い女性なのだとは思う。でも彼女は、それを補ってもお釣りが来るほどのクレイジーだった。
「三秒の自由を手に入れて、その間に天使に逢うのよ」
 要するに、壊れている女性だった。でもそう言ったときのあどけない表情は、まるで子どものようで。
 だからだろうか、
「天使に逢ったら、僕もそのうち行くって、言っておいてくれるかな」
 そんなことを言ったのに、彼女はさしてびっくりした様子もなかった。むしろ当然のように後を続ける。それはあまりにもさらりと言われた言葉だったので、僕はその意味をじゅうぶんに噛み締めることができなかった――もしもそうできたら、僕は彼女を止めていただろうか。
「ユウジはわたしが迎えに来るから」
 じゃあ、またね。永遠になるかもしれない別れの挨拶は、とてもあっさりしていた。毎日病室へ帰るそれと同じように、彼女は手を振って、三秒の自由を手に入れた。
 元は競泳の選手だったというアスマは、かるく貯水塔のフタを蹴って夏の海原へダイブ。とても気持ちよさそうに長い髪を羽根のように広げて、天使に逢いに行った。
 僕は映画のコマ落としのようにゆっくりと見えなくなるアスマの髪、腕、ワンピース、足を順番に見送りながら、思った。むしろ天使は彼女なのではないだろうかと。そしてそう思ってから、それでアスマが僕を迎えに来るのだと、素直に理解した。
 僕は笑った。ヒステリックに。アスマのようにクレイジーに。きっちり三秒間。
そして笑いを引っ込めた途端、頬が濡れていることに気付いた。どうやら泣いていたらしい。アスマが地上に辿り着くころだった。


 幸せそうな、とても幸せそうな顔だった。血をきれいに洗い流して死に化粧まで施して、安置所に寝かされた彼女はいつになく幸せそうだった。
きっと天使に逢ったんだろう。今もその辺で、僕を待っているかもしれない。
「アスマ……」
 結局僕は、彼女に名前を教えてもらえなかった。
 一度だけしつこく聞いたことがある。彼女は笑って、講釈を垂れた。「名前なんてものは人類が考え出した最悪の弊害よ」と。
草原で遊ぶ馬になりなかったと言っていたことを、不意に思い出した。

――終。


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