天泣、のち晴れ


 友人の家を出た時にはひとつもそんな気配はなかったのに、薬屋を通り過ぎる辺りでぱらぱらと雨が降ってきた。空は花曇りでふんわりとしたあたたかな色味をしているのに、雨足は存外に強い。狐の嫁入りとはとんだ災難だった。周囲の人々が小走りに逃げ場を探して駆けてゆく中、るいもまた目に留まった稲荷神社の石段を駆け上がり、右左から広げられた桜の枝葉を雨傘の代わりにした。
「あらあら、こんなに服が濡れちまって、それにざんざん降りで、帰れやしませんわね」
 ようやくお社の軒下に逃げ込んだるいは、白いハンケチでセーラー服を丁寧に拭きながらため息をついた。降り始めた雨はさあさあと、もう境内の石畳に水溜まりを作るほどで、しかもしばらくの間止みそうには思えなかった。
 ハンケチを鞄にもどしたるいは、ぼんやりと霧雨にけぶる緑の境内をながめた。雨の雫はきらきらと太陽の光に乱反射して、きれいだけれどどこか薄寒く、気味悪く思えた。雨宿り先が神社というのも、うまくなかったかもしれない。常にない、言うならば普通でない光景と場所は、るいを落ち着かなくさせた。
 うろうろと視線をあちこちにさまよわせていたるいは、ふと石段を上がってくる人影に気づいた。自慢ではないけれど目はいい方だ。だから、その人影が黒い紋付袴を着た若い男だということも、すぐにわかった。
 始めるいは、彼が彼女のように雨宿り先を探して逃げ込んできたのだと思った。だがすぐに、それは正しくありませんわね、と思い直した――男はひとつも焦る様子を見せていなかった。白木の高下駄をからん、からん、と鳴らしながら、むしろ雨に打たれることをもはや諦めのように受け入れ、歩いている。その足取りは、それでも確実にるいが佇むお社を目指していた。
「――あ、」
 男が近づいてくるにつれ、るいの目は彼の奇異な姿をとらえて離さなくなってしまった――男は英国人か独逸人のような、ふんわりとやわらかそうな明るい髪の色をしていた! それになんてお背が高くていらっしゃるのかしら、とるいは感嘆のため息をついた。
 まさかこぼした声やため息を聞きつけたわけでもないのだろうが、男はその時るいに気づいたように顔を上げた。るいは彼が走ってこちらに来るのではないかと、一瞬思った。けれども彼はそんなことはせずに、ただるいに視線をまっすぐに定めたまま、それまでとまるで変わらない足取りでゆるゆるとやってきた。どこにも行ってはいけないよ、と言われているような気分だった。
「ごきげんよう、女学生さん」
 紋付黒袴の男は、るいの見間違いなどではなくやはり明るい茶色の、ふわふわとした髪を持っていた。それなのに外国人めいた顔立ちでもしぐさでもなく、むしろ釣り上がりぎみの細い目や黄身をおびた肌、ちょっと会釈したところなどは、るいに同人種なのだという安心感を抱かせた。
 るいは不躾にならないように、けれどもはしたないほどに親しくはならないように、細心の注意を払ってぺこりと頭を下げた――殿方と人気のないところに二人きり、誰かに見られたら、赤面するような噂を立てられてもしかたのない状況ではあった。
「ごきげんよう。あいにくのお天気ですけれど」
「は、は。あいにくの天気ですか。それはあなたがお家にもどるのに?」
 男はずいぶんと軽い口を利いたが、るいをおもんぱかってか、軒下に入って来ようとはしなかった。彼の肩がずぶ濡れになっていることに気づいたるいは、渋々ながら少し脇に寄ってお入りになったらいかがですの、と言った。
「お着物が濡れておしまいに……それに、お体に毒ですわ」
 男は気づかなかった、というふうに目をぱたぱたとさせて、それからにっこりと笑った。おやさしい方ですね、と言いながらするりと軒下に身を滑り込ませてくる。それでもるいとは手のひら分ほどの間を空けて、それは彼が実際のところひどく生まじめな性格をしているのだということをしめしていた。るいはそれに気づくと同時に、妙にとくとくと心臓が早く鳴っていることにも気づいた。鞄から、一度しまったハンケチを取り出したのは、ほとんど無意識だった。
「お風邪を召されますわ。お使いあそばして」
 男はいっそうろたえたようにさえ見えたが、今度もやはりるいの好意を裏切りはしなかった。ありがとうと素直に礼を言い、るいからハンケチを受け取ってちょいちょいと濡れた肩や髪を押さえてゆく。るいは彼が気になってしかたがなかったけれども、じろじろとながめるのはあまりにはしたないと踏み止まって、横目で気配をうかがった。すると男はその視線に気づいたように、――ありがたくも――彼の方から口を開いた。
「ねえあなた、ちょっとぼくの話を聞いていただけませんか」
 彼はるいがうなずくのを、待たなかった。
「ぼくには幼馴染みがいましてね、ずっと親しくしていたんですが、……今日は彼女の結婚式だったんです」
 彼女はとてもきれいでした、と男はうつむき、羽織の家紋をちょっと撫でた。家紋は稲を模したもので、るいはそれをめずらしく思った――そうしてそれから彼の指が骨ばって長いことに気づき、きれいなお手、と思って顔を赤くした。なんてはしたないことを考えているのだろう! るいはその赤い顔のまま、目をそらしておめでとうございます、と言った。それは妙にぎこちなく聞こえた。
「うん、本当におめでたいことでした。ぼくは婿殿のことはよく知らなかったんですが、誠実そうないい男でしたしね」
 そこでふと男は顔を上げて目を細め、雨の雫を透かして、鳥居のずっと向こうをながめた。ごらんなさい、とすうっと人差し指で遠くをしめした。るいはどちらかといえば彼の手指の方が気になったけれども、そう言われて従わないのも失礼なことだと思ったので同じように目をすがめた。
「なにか――赤いものが見えますわ。ゆぅらりゆぅらりしていて、提灯のようですわね。すばらしいこと……」
「花嫁行列ですよ。あの先頭に見えるのがぼくの幼馴染みです」
 彼の見たのだろう幼馴染みの真っ白な花嫁衣裳が、るいにもその時見えたような気がした。彼女はうつくしかった――花婿の隣で、細面を赤く染めて微笑んでいた。ただその理由だけで、彼女はうつくしかった。
「本当に、おきれいな方ですこと!」
 思わずほぅとため息をこぼすと、男はそうでしょうそうでしょうとまるで自分のことのように嬉しそうに笑った。その笑顔はひどく無邪気で、るいは――きちんと自分をいましめていたにも関わらず――思わず見惚れてしまった。街中で見かける大学生などと違って、彼は粗野だとかバンカラだとかいう当世風の言葉とはかけ離れて見えた。そういう、世間にもてはやされる言葉からはどこか超越していた。
 るいの熱っぽい視線に気づいていたのかいなかったのか、やがて男はちらりと軒の向こうを見て、ああ、と声を上げた。
「上がりましたよ。これでお家にもどれるでしょう」
 男の言うとおり、雨はすっかりと上がって地面や枝々でガラスの粒のような雫をきらめかせていた。空は先ほどまでの花曇りとは打って変わって、青空にさえなっている。少しむっとするくらいの水の匂いが、逆にるいには心地よく感じられた。
 るいは良かったこと、と少し笑いながら軒の外に出て、そこにあった水溜まりを靴の爪先でぱしゃんとつついた。ひどく子どもっぽい真似をしたい気分だった。男はそんなるいを見ながら笑って、ハンケチは洗ってお返ししますと言った。
「そんな、失礼ですわ。お気になさらないでくださいませ」
「いいえ、ぼくがそうしたいんです――だから、」
 と、そこで男はちょっとためらったようだった。
「明日、もう一度会っていただけますか? あなたとお話するのはとても楽しかった」
 けれどもるいはためらわなかった。思わず、ということではなくて、ごく自然と、ええ、とうなずいた。るい自身、それをおかしいとか恥ずかしいとはひとつも思わなかった。
「ええ、ぜひもう一度お会いしたいですわ!」
 言うと、るいはにっこりと笑ってそれではごきげんよう、と優雅に頭を下げ、少しはしたないと自分でも思えるくらい軽やかに走った――石段を駆け下り、鳥居をくぐり、息を切らしながらそこで立ち止まると、くるりと振り返った。雨の中、軒下で、この神社を不気味に思ったのが今は不思議だった。こんもりと緑に覆われた神社は、こんなにもうつくしくて清廉なのに。
 明日、とつぶやいて微笑む。明日またあの男に会うのだ、ふわりと明るい茶色い髪の、どこか人間離れした雰囲気を持つ男に。そう思うだけで、るいの心臓はきゅぅとしめつけられ、早い鼓動を刻んだ。
 明日、ともう一度つぶやいて空を見上げたるいの目に、青空はひどくまぶしかった。

――終。


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