玄関の引き戸を修理していたら、右手の指に棘が刺さった。定年退職を来年に控えた哲治は、老眼である。棘の大きさがどの程度なのか、あるいはそれが爪でちょいといじれば取れるものなのか、そういったことがまるでわからない。しかしどうにも若いころから手先は不器用であったから、まずはピンセットなど使うがよかろうとサンダルを脱いで家に上がった。居間のタンスのどこかに入っているだろう。
 それにしても、今年に入ってから家の修繕を妻に頼まれたのは、都合四回ほどにもなる。築三十年の戸建てであるから、そろそろ建て替え時ということなのかもしれなかった。そういえば妻は訪問販売は追い返す性質であるが、最近は建築業者のパンフレットを家で見かけることがある。考えていることは同じなのだろう。
 居間のタンスは妻が嫁入り道具に持ってきたもので、衣服から雑貨などのこまごましたものまで、何でも入ると重宝している。ただ、今年大学を卒業した長女の美佳は、何かとこの古臭さを嫌っていた。
 哲治はまず、タンスの上から二番目、右側の引き出しを開けた。ピンセットがタンスのどこに入っているのか、そもそも家にあるのかどうかさえ哲治は知らなかったが、爪切りや耳かきの類が入っているのはここであったから、それらと似たものは、もしあるのであれば同じ場所に入っているのだろうとなんとなく思っていた。引き出しの中をかき回しながら、哲治はおうい、と妻を呼んだ。
「晶子、あれはどこにあったかな」
 妻の名は、晶子という。日曜の今の時間は、台所で朝と昼の食器を洗っているはずだった。案の定、そちらの方からはあい、と声がした。
「なに、あなた」
「あれだよ、あれ。どこにあるのかな――家にあるのか?」
 ちょっと待ってくださいね、と晶子が言い、ほどなくしてエプロンで手を拭きながら彼女は居間にやってきた。哲治は相変わらず、タンスの引き出しをかき回している。
「はいはい、なに。あれってなんなの?」
 晶子は哲治を追い払い、自分が引き出しを覗き込んだ。なるほど、確かに彼女が探した方が早く見つかるというものだろう。哲治は納得し、身振りを交えて『あれ』を説明した。
「あれだよ、ほら、銀色でこう、はさむやつ……」
「そんなの言われてもわからないわ。あなた、いつもそうなんだから」
 晶子は振り向いて顔をしかめてみせた。皿洗いを中断させられて、あまり機嫌が良くないようである。あるいは、要領を得ない哲治のせりふに苛立っているのかもしれなかった。
 しかし晶子の言い振りには、哲治の方もむっと来た。哲治とて、好きで肝心な物の名を思い出せないわけではないのである。
「お前こそ、そんな言い方をすることないだろう。大体お前、昔はそんなのじゃなかったじゃないか」
「こっちがわざわざ探してあげてるのに、その口はないでしょ!」
 晶子が声を荒げたことに、哲治は驚いた。彼女がそうした振舞いを見せるのは、滅多とないことだった。呆然と晶子を見つめると、彼女はうつむいて畳に目を落とした。
 二人はしばらく黙って、お互いを探り合うようにしていた。だが、やがて晶子がため息をついて顔を上げた。
「それで――何探してたの」
「ああ、うん……ピンセットだ。ドアは直ったが棘が刺さったもんだから」
 あれほど思い浮かばなかった単語がさらりと口から出てきたことに、哲治は驚かなかった。
 晶子はそう、ピンセット、とうなずいて哲治の開けた引き出しを閉じ、娘の美佳の部屋に入っていった。しばらくごそごそやっていたかと思うと、戻ってきた時には手にピンセットを持っていた。
「前にね、棘が刺さったーってやっぱり持って行ったのよ。でもそのまま戻しとかなかったのよ、あの子」
 哲治は無言でうなずいて、晶子からピンセットを受け取った。右手をぐっと目に近づけて、どうにか棘の刺さった部位を確かめると、不器用にピンセットを扱ってそれを抜こうとした。だが悪いことに手も震えて、思うとおりには行かなかった。
 哲治は顔をしかめて卓袱台にピンセットを置き、こめかみをほぐしながらちょっと電気を点けてくれ、と晶子に頼んだ。晶子は黙って電気を点けた。手元が明るくなって、多少は見えやすい。哲治はもう一度ピンセットを持ち上げた。
「本当に、不器用なんだから」
 ぽつりと晶子が言った。
「なんだ、まだいたのか」
 そのまま台所に戻ったとばかり思っていた晶子は、まだ居間にいたらしい。顔を上げるとどこかぼんやりしたような顔で、彼女は哲治を見つめていた。それからぱたぱたとまばたきをして、すぅっと哲治の方へいざり寄ってきた。
「ほら、もう、貸して。うっとおしい」
 まるで子供からおもちゃを取り上げるようにピンセットをつまむと、晶子は妙に真剣な顔つきで哲治の指先をながめた。わずかに顔を出している茶色い棘の先端を見定めると、それを押し出そうと彼女は周囲の肉を爪で強く押した。
「ドアは直ったの」
「直ったは直ったけどなぁ、もう今年で四回目じゃないか」
「建て替えた方がいいのかしらねえ……」
「僕もそう思ったよ。どこか良さそうな会社はないのか」
 どこも大して変わらないみたいよ、としかめ面でピンセットと棘を見比べながら、晶子は答えた。
「屋根の修理とか壁の塗り替えでどうにかなるものでもないだろうから。――ピンセットじゃ無理でしょ、こんなの」
 そうかな、と哲治が首をかしげると、晶子はそうよ、と言って立ち上がり、タンスの引き出しを開けて使い古した裁縫道具を出してきた。針山からマチ針を一本抜いて、ちょっと皮を剥くから、と哲治に断りを入れた。
「そうすると、建て替えか。いくらくらいするもんなんだろうな」
「知り合いにいないの、そういう人。見積もりくらいなら無料でしてくれるんじゃない」
「どうかな、大学の時のでいるかもなあ。ちょっと探してみるか――おい、痛いって」
 はいはい、とおざなりに返事をして、晶子はマチ針を元のように針山に刺した。甘皮のめくれた哲治の指先を見て、今度は取れるんじゃない、とまたピンセットを持ち上げた。
「私も近所で聞いてみるからそっちもよろしく」
「美佳の同級生でもいるんじゃないかな。聞いてみてくれんか」
「そんなの自分で聞いたらいいじゃない。あなた最近、美佳と話してないんじゃない」
「僕が帰ってくるとあいつは風呂か携帯じゃないか。あっちが僕と話したがらないんだ」
 そんなことないでしょ、と晶子はいつになく真剣な声音で言い、ピンセットを器用に扱って先ほどよりも長く顔を出した棘の先端をつかんだ。自分ではとてもこうはいかないと、哲治は内心感心した。
「今夜はあの子、早いらしいから、晩御飯の時にでも言ってみたら。喜ぶんじゃない」
「うーん、そうか」
「そうでしょ。……あ、ほら、抜けた」
 晴れ晴れと笑って、晶子はピンセットでつまんだ棘を掲げてみせた。どれ、と哲治が見てみると、その棘は意外にも長く、ずいぶんと深く指に刺さっていたようだった。晶子も感心したように、結構長かったのね、と言った。それから彼女は引き出しから絆創膏を出してきて、さっと哲治の指にそれを巻いた。はい出来上がり、と言われて、哲治は何故かほっとした。
「助かった、ありがとう」
「はいはい。ああ、そういえば洗い物途中だったわ」
 急に時間を思い出したようにあわただしく立ち上がり、晶子はせかせかと台所に戻って行った。哲治はピンセットをタンスの右の引き出しの一番上にしまった。そのとき玄関の引き戸ががらがらと開く音がして、ただいまあ、と美佳の声がした。

――終。


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