注意:このSSは「隻手の声」の続編です。
「隻手の声」を読まなくても支障はありませんが、読むとストーリーが理解しやすくなります。
先にゆく想い
もどってまいります、と隻腕の彼女は笑って騎乗の人になったから、もどってまいりました、と笑ってまた目の前に立ってくれるのだと、そう信じていた。幼いころに信じたと同じだけの強さで、言葉にもしなかった約束を。
本当は、知っていたのに。
大勝利だったのだと、聞く。王が出陣する必要などはない、けれどもそれなりの威厳だとか実力だとか、そういうものを見せつけねばならない戦で、彼女はみごとな采配を見せたとも。
けれど、思い返してみれば昔から彼女は勇猛果敢、さながら神話の女神のような人で、そもそも利き腕を失くした理由とて、みずからを盾に当時まだ幼かった自分を守ったがゆえのことだった。そんな人が、たとえ大軍を指揮する身だからと言って、兵士たちの後ろでのうのうとしているはずがないのだと、どうして気づけなかったのか。
清められ、死に化粧をほどこされた――生前は並みの女のように着飾ることは滅多となかったというのに、皮肉なことだ――彼女はうつくしかった。ただ、その日の光に乱反射してめまぐるしいまでに複雑に色を変える理知的な瞳だとか、彼女を彼女たらしめていた熱い血潮の失われた身体は、彼にとってはもはや彼女ではなかった。
「――国葬を。わたしによく仕えてくれた騎士だ」
はい、と臣下のひとりが背後で答え、彼はぎちりと唇を噛み締めながら、しばらく二人きりにさせよ、と低く言った。そのくらいの我儘は許されてしかるべきだと思った。彼は王であったし、彼女は彼の護衛騎士だった。
静かにざわめきながら足音たちが部屋を後にした。途端に耳鳴りがするほどの沈黙に背を押され、彼はど、とその場に膝をついた。呼吸をするということは、こんなにも難しいことだったろうかと胸をつかむ。早くも棺におさめられた彼女の顔は、くずおれた彼には見えなかった。
「――、」
呼んだ名は、声にならずに喉でかすれた悲鳴になった。そも、呼び慣れていなかった。彼女の、彼女だけに与えられた名を呼んだのは、もうずっと昔のあの別れの日だけだった。あの時彼女は再び彼の元へともどってきた。だがもう時は経ち過ぎていて昔話の魔法は失われ、幾度その名を呼ぼうとも、彼女が笑むことは二度とないのだ。
は、は、と荒い息をつきながら、いざるように棺に身を寄せる。
彼女から奪ったものは数え切れないほどあった。腕、女としての幸せ、そうして命。だが彼女に与えたものなど何ひとつとしてなく、それが泣きたいほどに悔しかった。どうせ奪うことしかできないのならば、彼女の矜持さえも奪ってこの腕の中に閉じ込めておくべきだったのだ。
甲冑に覆われた胸の上、剣の柄に置かれた彼女の左手を、そっと取る。それはぞっとするほどに冷たく、力なく、まるで彼女の手とは思えなかったが、そうでないはずはなかった。並みの女よりもよほど節くれ立ち、荒れた手は、それでもまだ実のところ彼よりもずっと華奢だった。
――王になってすぐ、街の職人にひそかに作らせた指輪がある。それはただ彼が彼自身の満足のためだけに作らせたもので、贈ることなど一度たりとも考えたことはなかった。彼はその時すでに妻を娶った身だった。
彼は彼女のその指に、するりと指輪を落とした。鈍く光を反射する銀のそれは彼女の指よりもずいぶんと大きく、そんなことさえも知らずにいた彼を嘲笑うかのようだった。
「わたしは、そなたを、」
その言葉を口にしてはならないと、知っていた。
王などが彼女の唇を汚すことは許されない。指輪をはめた手に、彼は唇を押し当てた。
愛していた。
――終。
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