すべてはあなたと水底に

 この音を文字で表す適切な並べ方を私は知らないが、昔母さんが読んでくれた絵本に出てきた、「どっどど どどうど」というそれを思い出す。あれは風の音だったように思うのだが、別に水音に使ってみたところで、作者から文句は出ないはずだ。
 実際のところ、これは河の流れる音なのだ。ふたつの国の間を流れる河は、もう「河」としか呼ばれなくなって何十年も経つと父さんから聞いた。それがあまりにもこの河が大きすぎるせいなのか、それとも両国のデッドラインだからなのか――よくわからないが、私にとっても河は河以上の意味も、名前も持たなかった。
 そんな河のほとりの小さな村に、私は同僚と二人で暮らしている。
 ふつう、こちらでもあちらでも、橋のある川辺には大きな街ができるものだが、この辺りは川幅が馬鹿みたいに広く、底が深く、また水量も多くて雨が降るごとに橋が流されるので、住人はきちんとした石造りの橋などはもうあきらめている。確かに私がここに住み始めてから橋は二度流され、今かけられているのは三度目の、粗末な板をつないだだけのものだ。つまりさまざまな側面から見て旨みが少ないせいで、この村はちっぽけなままなのだった。
 同僚は気のいい、少し年上の男で、ここに送られたことを「誰がどう見ても左遷」だと公言してはばからないにもかかわらず、意外とこの生活が気に入っているらしい――それは私もそうなのだけれど。
 官舎(という名前の丸木小屋)の裏手に畑を作ったり、ご近所に卵をもらったりお返しに山で仕留めたウサギをあげたり、魚を釣りに行ったりするのは楽しいことだ。「釣り」――この観察任務をこう呼び始めたのは前任者なのだろうか――が本当に釣りのためだけならもっといいのだが、そこは私たちの役目を考えれば、双眼鏡で向こう岸をちょっとのぞいて、日報に「異常なし」と書き込むくらいの手間は惜しんではいけないのだと思う。給料の配達が三ヶ月ほど遅れているとはいえ、私たちは公務員だ。
 同僚と私は、半年ほど前にここにやってきた。前任者が二人とも大雨の翌日に河に足をすべらせて落ちてしまったので、穴埋めが必要になったのだ。
 私と彼とは、この村から一日ほど南に下がったところにある基地で初めて出会い、おんぼろトラックにゆられる間にそれなりに親しくなった。初対面の男女を一つ屋根の下に押し込むなんてずいぶんと乱暴なあつかいを受けたものだが、ともかく役割分担をし合い、私的にもうまくやって行けるようになるには、一八〇日というのは十分な時間だった。
 今ではもっぱら、「釣り」は私の仕事になっている。私は昼ごろに橋のたもとに向かい、釣り糸を垂れる。そうして双眼鏡であちら側をひとしきりのぞくのだが、最近は釣り道具と一緒に入れた袋からそれを出すことは少ない――橋を渡ってくる「彼」にこの無粋な道具を、率先して見られたいとは思えなかったので。
 橋を架けている以上、どんなにお粗末なものであっても、そこには交流ができるのが当たり前だ。こちらの村からはいくらかの野菜や布が出て行き、あちらの村からはいくらかの農具や織機といったものが入ってくる。実のところ、川辺の小さな村では、人の行き来も少なくない。こちらから嫁に行く女があれば、あちらから婿に来る男もいる。
 彼は――あちらの村で、商人のまねごとのようなものをしているらしい。来る時も行く時も、いつ見てもさまざまな荷物を背中に山ほど負っていた。木の実の殻の、あちらの手先の器用なのが作ったという、かわいらしいブローチをもらったこともあった。
「ねえ、俺が通る時はいつもあなたはここにいるんだね」
 声をかけられたのは、笑いながら会釈を交わすようになって、そのブローチをもらった時が初めてだった。私は、とっさに袋から半分はみ出ていた双眼鏡を押し込んだことを覚えている。私はたぶん、贈り物に――異性からそうしたものをもらったのは初めてだった――動揺していたのだ。
「そうね。でもここは色んな人が通る――あなただけじゃなくて」
 私は彼が私に興味を持っていることを知っていて、無難な言い方で事なきを得ようとした。釣り糸が引いていることに「突然気づいた」のも、そのせいだ。けれども彼はその程度でへこたれはしなかった。
「それは、誰かを待ってるって意味?」
「いいえ――そういうわけでは、ないけど。私は、ほら」
 言いながら、私は水面で身をくねらせている魚を網ですくい、木箱の中に開けた。魚は、数時間後には私と同僚の胃におさまる運命だ。
「今日の夕食をね。誰かと約束なんてするほど、知り合いらしい知り合いもいないし」
 合成飼料を丸めたものを針の先につけ、私は再び釣り糸を河に投げ込んだ。
 私はてっきりそれで彼が納得してあちらに帰ってゆくと思っていたので、不意に肩に手を置かれて、ちょっとどころではなくどきりとしたのは確かだった――同僚と私は、お互いにたやすく身体に触れ合うようなことはしなかったので。
 それじゃあ、と彼は少し声をひそめてささやいた。私は彼の声を実際の距離よりも近くで聞いたと思った。
「俺を待っててよ。――あなたと話がしたかった」
 私は知っていたのだ、彼が私に興味を持っていると。

 私は――この関係を、ひそかに「逢瀬」という文学めいた名で呼んだ。私のこのいくらかロマンチストな性分は、たぶん母さんと父さんが私に仕込んだのだと思う。父さんは夜ごと母さんの窓辺をたずね、二人は他愛のないひとときの逢瀬を楽しんだのだと、そんな話を聞かされたことは何度でもある。
 私は今や双眼鏡のことはほとんど忘れ去っていた。同僚は、「異常なし」の日報に違和感を覚えることもなかったのだ。私は彼とおしゃべりを楽しみ、たまには浅瀬で子どものように遊ぶこともあった。
 ただ、一昨日は少しこまったことになった。私たちはまるで本当に小さい子どものように、板切れ一枚の橋をどれだけ早く走って渡れるかという競争をしていたのだが、その時に彼がうっかりと足を引っかけて、双眼鏡の入った袋を河に落としてしまったのだ。ごめん、ごめんと彼は謝ったし、私は気にしないで、と笑ったが、実際のところ、これは本当にこまったことだった――同僚に見つかったら、どう言い訳すればいいのだろう。
 それで、私は腹をくくった。

 大抵、「逢瀬」は私の来るのが先で、彼は後から橋を渡って走ってくるのだが、今日は私が竿を下げて橋のたもとに行くと、彼はもうそこで待っていた。やあ、と笑ってちょっと手を上げるそのしぐさが、私はとても好きだった。
「今日は早いんだ?」
「俺が早かったんじゃない、あなたが遅かったんだよ。どうかしたの」
 何も、と私は笑って、いつものように釣り糸を河に投げた。双眼鏡をなくしても、私は釣りは忘れなかった――現に今も、私はちゃんと数匹の魚を持って帰っていた。
 河は、昨日雨が降ったせいで増水して、安物のコーヒーのような泥水が渦を巻いていた。頼りない橋は今にも流されそうで、彼があちらから渡って来れたのが不思議なくらいだ。落ちたらひとたまりもなさそう、とちらりと考えて、私はぞっとした。
 私は立ち上がって彼に歩み寄り、できるだけかわいらしく見えるように彼の服をきゅ、とつかんだ。心臓が少し痛かった。
「あのね――私――帰ることになったの」
 え、と彼が目を見開き、私はその視線から逃れるように身をよじった。
「あなたとのことを同僚が言ったみたいで、後任が来ることになったの、それで……」
「あなたはそれでいいの?」
 彼が怒ったように言い、ぐっと私の腕をつかんだので、私は一瞬ひやりとした。足元は雨で土がゆるみ、ほんの一、二歩後ろは河だった。
「いいも何も――元から帰るのは決まって……っ!」
 彼の顔が私の顔に触れんばかりに寄ってきて、私はそのセリフを言い切ることを放棄した。代わりにさらけ出した私の素顔は放せ、としわがれた声で叫び、精一杯の力で彼の手を振り払――おうとしたが、無理だった。ず、と押されて足がすべり、私には失敗の二文字が私を嘲笑いながら彼を後押しするのが見えた。
 「事なきを得る」なんて不可能だ。前任者もこんなふうにして落ちていったのかと思うと、私はほとんど絶望的な気分になった――彼がニタリと笑う。わかっていたのに。わかっていたのに! 私は馬鹿だ。
「ねえ、あなたは俺に合わせすぎたね――俺も大概、芝居はうまい方だけどさ」
 そして男はその絶対的な力で私を河に突き落とした。
 河は不注意な人間を――私も含めて――容赦なく押さえつけ、もみくちゃにして、その命を奪おうと猛った。それでも私は必死だった。私は確かに不注意で馬鹿で彼に付き合いすぎたが、前任者と同じ轍を踏みたくはなかった。それに私が死んだら、同僚は泣くだろう――一八〇日は、そのくらいには私たちを親しくさせた。
 私はめちゃくちゃに手と足を振り回し、指先が何かかたいものに触れた時、毎日それなりに気を使って手入れをしていた爪のことなどは忘れてそれに全力で身体を引き寄せた。幸いなことにそれはきっと橋げたか何か、きちんとそこに直立しているもので――私はしばらくの間、ほんの爪の先ほどの安堵を得た。
 それでも、どちらが上でどちらが下なのかも曖昧で、呼吸はできないままで苦しかった。でも、流されて膨れた水死体よりは、呼吸困難で死んですぐ見つかる方がましだ。
 つまり、私はほんの数秒の内に、「死にたくない」から自分の死体を考える程度に絶望的になっていたが、橋げたに抱きついた腕が力をなくすよりわずかに早く、誰かが私を乱暴に引き上げた――酸素と光!
 私は地面に四つ這いになって咳き込み、水と朝食の混じったものをげえげえと吐きながら、なんとか顔を上げてその力強い腕の主を見上げた。
 生きてたか、とその人は目尻を下げてため息をつき、私は――それが彼ではないことを知っていたが、泣きたくなった。この状況で私を助けてくれるのは、彼では有り得ず、ただ同僚だけだった。彼はあちら側の男で、同僚はこちら側の男だった。
 彼は、と聞くと、同僚はこまったように笑って、「足をすべらせた」とあまりにも見え透いた嘘をついた。少しはなれたところに同僚の拳銃が馬鹿みたいに転がっているのを私が見ていないとでも思っているならずいぶんとおめでたい男だが、それはきっとこの男一流のやり方なのだろう。
 そう、と答えた時に水面に落ちた小さな波紋を同僚は見なかったはずだが、ごめんと彼のように謝りながら抱きしめられた腕があたたかかったので、私は少し泣いてしまった。

――終。


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