俺はどうしてまたこの坂を上っているんだろうと顎の汗をぬぐいながらふと思う。もう足元の石畳をにらみつけていることさえ苦痛だ。憎たらしくも雲ひとつない青空から降り注ぐかんかん照りの日差しは、木陰の下にいてさえくっきりとしすぎたコントラストで目を焼く。むやみやたらとわめきだしたい未成熟な怒りのようなものをぐっとこらえ、歩きながらペットボトルのふたを開けて生ぬるくなったスポーツドリンクを飲み込んだが、湧き上がった『どうして』を消化することはできなかった。
坂の途切れ目、右手に大きな池を臨む辺りで足を止め、一息入れる。睡蓮の葉が浮く池のほとりでは、この公園のいたるところでうろうろしている猫たちが、彼らも暑さにまいったと言わんばかりに数匹、ぼてんと転がっていた。ぼんやりと猫をながめながら、俺はどうしてまたこの坂を上っているんだろうと、同じ自問を克宏は繰り返した。
十歳の克宏がこの坂を上ったのは、切通しのどん詰まり、公園と外人墓地の奥にある洋館で、肝試しの下調べをしようと思ったからだった。テレビゲームのゾンビや吸血鬼が出てくるにふさわしいような十字架の形をした墓石が立ち並ぶ墓地とほとんどすり合うようにして建っている洋館はそのシチュエーションだけで肝試しにはふさわしかったし、一体かつて誰が住んでいたものやら、当時でさえ雑草が生い茂り、緑のペンキがはげかけた鎧戸が、ネジの片方を失って中途半端にぶら下がりながら風に揺れているようなところを見てしまえば、子どもの間では幽霊屋敷と噂にならない方がおかしかった。
肝試しはクラスの男子のほとんどと、数人の女子が参加することになっていて、ジャンケンで負けた克宏は脅かし役の先鋒として偵察任務を仰せつかっていた。坂下にある克宏の家から洋館までは、どれだけ切通しの坂が急だと言ってもほんの十数分。学校のプールからもどってきた土曜日の午後、安っぽいソース焼きそばで満腹になった腹ごなしにはちょうどいい運動と言えた。
十年前の坂道もひどく暑く、光と影のコントラストは強烈だった。池の前では立ち止まらなかったから、猫が昼寝をしていたかどうかはわからない。静かな外人墓地の前を足早に通り過ぎたのはそれでも少しだけ怖かったからなのかどうか覚えていないが、幽霊屋敷の洋館はいつもと違って錆びた鉄門を開け放してあったことは覚えている。
「開いてるのか……」
幽霊屋敷の洋館は錆びた鉄門を開け放してあって、克宏は呆然と、十年前よりもさらに子どもたちの間で噂になっていそうな、とんでもないボロ屋に成り果てたそれを見上げた。セイタカアワダチソウは一階の窓をほとんど覆い隠し、二階バルコニーの手すりは一部なくなっていた。立ち入り禁止の看板がないのは不思議とさえ言えた。
そもそも自分は大学入学後初めての彼女がいる夏休みを一体何に使っているのかと克宏はここに来て疑問を覚え、帰ろうかと振り返ってもみたが、目に入ったのは延々と自分が重たい足を引きずった急な坂道で、何もしないままに踵を返すのはひどく癪に障るような気がした。それに坂を下りたところで、今はもう足を休める自宅はここにはない。実家は中学時代に隣の市へ引っ越したままだ。
いまさら肝試しでもないのだが、あの時を思い出すことくらいは、あなたは許してくれるでしょう。そんな身勝手なことを考えながら克宏は雑草を踏みしだき、鉄門をくぐった。
そこが幽霊屋敷と呼ばれるだけにその人は幽霊ではなかろうかと十歳の浅はかな克宏は考えたものだが、草に埋もれ、苔に侵食された表札には茶木と書いてあったのだと教えてくれた人には、間違いなく足があった。
「ここは今はうちの家族は使わないの。私はたまたま今年だけ来ただけ。だから肝試しに使ってもいいのよ」
隣の県の女子大に通っているという茶木さんはにこにこ笑いながら言ってくれたが、克宏は結局クラスメイトには、あそこはなんとかいう人の別荘で今人がいるからダメだ、と伝えたのだった。その実肝試しに来ているのだと茶木さんに嘘をつく自分は汚いと思ったのは事実だったが、彼女の存在を広めてしまいたくなかったのも事実だった。
別の場所、近所のお寺で決行された肝試しの途中女子の一人から告白されて、そうして茶木さんに対するもやもやとした心の中のものをひょっとしたらこれは恋なのかと自覚した夏休みの終わり、八月の末、幽霊屋敷の洋館から二十歳の茶木さんはふつりと姿を消したのだった。
外見の割に、というか外見からはまったく想像もできないほどに、洋館の中はきれいに掃除と修繕がされていた。よく見てみれば鉄門から玄関ポーチまでの数メートルも最低限の草むしりだけはされていて、ここに人の手が入ったのだということは一目瞭然だった。あわてて門の外にもどって表札を見てみると、茶木と書かれた古いそれの隣に、無理矢理新しい別の名前のものが打ち付けられていた。
克宏は坂道を上がった時よりもなおうるさく脈打ち始めた心臓を黙れと怒鳴りつけ、洋館に入り込む。やかましく足音を立てながら半ば走って、一階の一番奥、猫の身体一匹分ほど、つまりほんのわずか開けられた応接間のドアを体当たりするように大きく開け放った。
「――いらっしゃい、この近所の人?」
その人は幽霊ではなかろうかと克宏が思ったのは、セミロングの髪が背中を覆うほどまでに長くなったこと以外、ほとんど茶木さんの外見に変化がなかったせいだった。まるで彼女にだけ十年はなかったかのように、三十歳であるはずの茶木さんは昔のままだった。
だが茶木さんが幽霊でないことを本当は知っている克宏は、彼女がここにいることを始めから知っていたように落ち着いていいえ、と首を横に振った。
「ここには住んでいません。俺はたまたま今年だけ来ただけです」
そうなの、と笑った茶木さんは、子どもがするようにおいでおいでと克宏を手招きした。光と影のコントラストが強い。外人墓地を望む応接間のサンルームにはリクライニングの大きなソファが置いてあって、開け放たれた窓から吹き込んだ生暖かい風がレースのカーテンを大きくはためかせた。ふらりと茶木さんに歩み寄った克宏は、いまさらのように彼女が剥き出しの肩を見せていることに気づいた。
去年の冬から付き合いだした彼女に別れ話を持ち出したのはその週の内で、毎週末に坂道の行き詰まりにある洋館を訪ねるようになった克宏はもはや猫が昼寝をする池をながめなくなった。長い大学の夏休みが終わるころにはめまいがするほどに暑いと思うことはなくなったが、この坂を上がる時はいつも脇の下にじっとりとした汗をかいているような、奇妙に後ろめたい熱さを感じた。
季節は冬になっていた。土曜日の午後、いつものように切通しの坂を歩いていた克宏が池の前で足を止めたのは、びゅるりと上から吹き降ろすように冷たい風が吹いたからだった。そういえば猫は冬の間はどこへ行くのだろうとのろのろ池をながめると、猫はいなかったが夏の間は木々が茂って見えなかった辺りに、朽ちて崩れたレンガの一群があった。端の辺りには玄関ポーチだったのだろうか、白いタイル石がはめ込まれ、それがかつて洋館だったものの基礎建築部分なのだということを必死で主張していた。それは薄寒い光景だった。
心臓のかけらをかじる虫がいるような気分の悪さをなかったことにして、克宏は足早に洋館へ、今もなお崩れぬ洋館へと向かった。夏には猛勢を誇ったセイタカアワダチソウも枯れて久しいが、三十歳の茶木さんはまだここから姿を消すことはなかった。茶木さんはいつものように、応接間のサンルームでぼんやりとソファに寝そべっていた。
「赤ちゃんができたわ。産むわね」
「それって俺の子?」
そうよ、と言った茶木さんは、十年前のようににこにこと笑っていた。不意に何かこみあげてくるような、追われるような衝動に背中を押されて、克宏はたまらずに彼女をきつく抱きしめた。ぽんぽんと肩越しに克宏の頭を撫でた茶木さんは、夫はね、とのんびりした口調で言った。
夫はね、交通事故で下半身不随になってしまったわ。努力すればできるかもしれないとお医者さんは言ったんだけど、あの人はそういうことだけが夫婦じゃないと言うのよ。自分が失敗するのが怖いのね、要するに。でも詳しくは言えないけれど夫は割合に大きな会社の跡取りだから、子どもは絶対に必要なんだって言い張るの、こまった人ね。
そう、夫はだから私をここに来させたのよ。この洋館は昔から入り込む人が多いから――人を作るものは生まれじゃない、育ちだなんて立派なようには聞こえるけれどね。夫は私がちょっとしたバカンスをすることを望んでいるのよ。離婚はしないと言い張ったわ。
ねえ、ちゃんと話を聞いてね。私、これはバカンスなんかじゃないってきちんと言ったのよ。でも聞いてもらえなかったわ。バカンスだったら私家に帰らなきゃならないわね。
ねえ、私ここにいてもいいかしら。
俺はどうしてまたこの坂を上っているんだろうと顎の汗をぬぐいながらふと思う。
切通しの坂道をずっと上がってゆくと途中に猫がほとりで寝転がる睡蓮の池があり、外人墓地と肌をすり合わせるようにした洋館が目に入る。その洋館は幽霊屋敷と呼ばれている。鉄門は錆びて半開きのまま、今の季節はセイタカアワダチソウが一階の窓を覆い隠すように茂り、二階バルコニーの手すりとペンキのはげた緑の鎧戸が庭に落ちている。苔むした表札には茶木と書かれているが、それを知っているのはとうの茶木さん以外では克宏だけだ。去年の同じ時期にこの表札の隣にあった新しい別の名前の表札は、どこへ行ったものか今は影も形もない。
白いタイルの玄関ポーチには時間を見計らったか、今しもひとりの女が出てきて、坂道を駆け上がってくる年下の男にゆるゆると手を振っていた。この洋館に子どもはいない。ああそうか、俺がこの坂を上るのは、茶木さんがいるからか。
十一年目の夏がとろとろと過ぎている。
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