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昼にメールで会おうと約束をして、八時すぎに家に向かったが、彼女はまだ帰っていなかった。合い鍵でドアを開け、薄暗い部屋に明かりをともす。それからストーブに火をつけた。寒い中家に帰ってきて、人がいるとうれしいのはぬくもりがあるからだ、という言葉をなにかの本で読んだ。もうひとつ個人的に付け足すのなら、彼としては人気があって部屋があたたかければ申し分ない。きっと彼女も同意見だろう。 夕食はなにか買ってくる、と言っていた。そうすると、もうやることが特にない。手持ちぶさたぎみに辺りを見回すと、脱ぎすてられたシャツとジーンズが目についた。いそがしい彼女のこと、家事がおろそかになることは知っているが、それにしても洗濯物くらい、まとめておけばいいものを。 ため息をつきながら、彼はよく見ればあちこちに散らかる洋服を拾い集めた。リビングだけでなく、独身女性が住むにしては異常なほど大きい家の部屋をめぐってゆく。寝室にも、いまさら気後れするような関係ではないから堂々と入り込むと、そこはもはや物置と言った方が正確で、クローゼットから普段着、果てはコンサートで着るようなドレスに至るまでがはみだしていた。彼は床で埃まみれになっているものだけを選んで抱えると、後はクローゼットにもどしておいた。 こういう時、もう少し女性らしくした方がいいんじゃないだろうか、とも思わないではない。けれども彼女が趣味と実益を兼ねたその仕事をとても好いていて、打ち込んでいることを知っているから、結局いつもそのままでかまわないと結論づけてしまう。甘すぎるのか――それとも、彼自身はとうにあきらめてしまった夢を、彼女が体現しているからなのかもしれない。二十代も半ばを迎えて、まだ学生時代そのままに歌をうたい続ける彼女は、彼にとって時折ひどく遠い存在だ。 リビングと寝室、そしてレッスンルーム。彼女の家はその三部屋で構成されている。彼は残されたレッスンルームのドアを、ためらいがちに開けた。十畳の間取りの真ん中にどん、と鎮座するのは、彼女が音取りに使い、副業のピアノ教師としての必須品でもある、黒塗りのグランドピアノだ。 この部屋はきれいなんだなと不思議に思ってから、そうか、ここには生徒を入れるからか、と苦笑する。ピアノを教える近所の子どもたちに、まさか散らかった家をさらすわけにはいかないのだろう。なるほど、電気をつけても、ちりひとつ見当たらない。 なんとはなしに、そっと鍵盤蓋をなでる。堅い木の感触が、指先になつかしかった。そのなつかしさにかられて鍵盤蓋を上げると、モノトーンの鍵盤の上にカバーはかかっていなかった。心の準備ができない内にかつて親しんだものを見せつけられて、急に息苦しさを覚える。 ――昔、ピアノを弾いていた。 一日に何時間も何時間も弾いた。ピアノさえあれば生きていけると思えた。けれどそんなものは、幻想にすぎなかった。若者はいつか来る未来ではなく近く訪れる将来を思うようになり、平たかった指先は今やふっくりと丸みをおびている。 もう、こんなものを弾ける人間じゃない。そうは思いながらも、ぎこちなく人差し指でC音を奏でる。澄んだ音には寸分の狂いもなかった。きちんと調律されたピアノの音は、ただの単音でもうつくしい。ならば、和音は? 自然と右手が押さえたCメイジャーの和音に、彼は泣きたくなった。弾きたい。まだこの手が、耳が、たくさんのピアノ曲を覚えている。かつて暗譜したとおりに。 彼女はまだ帰ってくる様子がない。それならば、このもどかしいほどの欲望をなだめるために、一曲くらい弾いてみてもいいかもしれない。彼女には聴かせたくなかった、十数年弾いていない、錆びついた指の奏でる音など。 閉じたままの大屋根の上にいくつか置いてあった楽譜を見ると、ポップスからクラシックまでジャンルは様々だったが、ごく知られた曲のピアノピースばかりだった。その中から適当に引っぱり出すと、ショパンのノクターンだった。こんなものを弾く子もいるのかと思ってから、少し前に上映された映画で、ユダヤ人のピアニストが同じ曲を弾いていたことを思い出した。なるほど、あれを見て弾いてみたいと彼女にねだったのかもしれない。 ひととおり楽譜をながめてから、最初の数小節を手なぐさみに弾く。ピアノの音が消えても耳の奥で曲の続きが流れることをうれしく思いながら、今度は本気で弾き始めた。同音型の四小節はひかえめに、続くさみしげなモノローグは、だれもがいつか負った痛みのかさぶたを、その音でひっかくように。 この曲をきらいだと言う人間と、好きだと言う人間がいる。どちらにしても、彼らは同じ理由から好き嫌いを判別するのだろう。ショパンの悲痛があまりにもストレートに届きすぎて陰鬱な気分になるという感想は、彼も否定するところではない。 最後の高音から指を離すと、背後からパチパチと拍手が聞こえた。どうやらひさしぶりのピアノにひたりすぎて、彼女が帰ってきたことに気づかなかったらしい。彼は舌打ちしたい気分で振り返った。 「弾けるんだ、ピアノ。音楽好きそうだなとは思ってたけど」 ドアのところで壁にもたれたまま、彼女は少し笑った。シャーリングの入った、赤いストライプのシャツに黒いパンツを合わせた姿はちょっと目を引くはなやかさで、なるほど今日は都心に用事があったというのもうなずけた。しかしそれだけに、彼女はつかれてもいるようだった。 つたないピアノを聴かれた気まずさと、つかれた彼女をいたわりたいという愛情が入り交じって、彼はしばし言葉をなくした。しんとした部屋には、それでもまだ先ほどのショパンがいくらか残っているようだった。暗い空気だった。 「……気がつかなかったよ。ごめん」 「それって、お帰りを言えなかったことに対して? それともピアノについて?」 皮肉で、いやみな言い方だと彼は思ったが、答えずに鍵盤蓋を閉めようとした。やはり、弾こうと思ったのはまちがいだったと思った。せっかく会えたのに、彼女とおろかな言い合いをするはめになるなんて。 「せっかくだからもうちょっと弾いたら」 立ち上がろうとすると、閉めた鍵盤蓋をもう一度開けて、彼女がささやいた。背中にふれる体温を愛しいと思い、同時にいとわしいと思った。どうしてそんなことを言うのだろう、もう昔のようには弾けないことなど、今のショパンでわかっただろうに。 「弾かないよ。聴けたもんじゃないじゃないか、今のだって」 「別にどうでもいいじゃない、そんなの。じゃあ言い直すよ、弾いて」 「弾かない」 「弾いて」 「おれはもうピアノはやめたんだ!」 鍵盤に彼の手を持ってゆこうとする彼女に抵抗して振り払おうとすると、短く小さな悲鳴を上げて彼女は彼の身体に倒れてきた。相手が女性だということを、しかも自分の恋人であるということを忘れていた事実そのものに、彼は一瞬おどろいた。ごめん、と顔をそむけると、彼女は気にしてないよ、というふうに彼の手に自分の手をそっとかさねた。そのやさしさこそ、痛かった。 彼の気まずさがいくらかやわらぐほどの時間を待って、彼女は言った。 「君のピアノは好きだよ」 本業が別物の人間に言われてもうれしくないかもしれないけどね、と彼女は付け足した。そうは言うが、声楽家としてちょっとした成功をおさめ、まがりなりにも人にピアノを教えている人間のセリフだ。彼は彼女の気づかいをあたたかくかみしめた。 「どうしてやめたの?」 それは責めるふうではなく、彼をなだめるための一言のようだった。だから彼が答えなくとも、きっと彼女は気にしなかったにちがいない。けれども彼は、彼のピアノを好きだと、あんなどうしようもなく粗雑な演奏を好きだと言ってくれた彼女に、なにがしかを返したかった。それがたとえ、ショパンのノクターンのように彼を陰鬱にさせたとしても。 かさねられた彼女の手を、今度は自分から力無くにぎりかえす。あたたかい。迷子の子どもをみちびく、ともしびのように。 「弾けなかったんだ」 なかなか出てこない言葉の続きを、彼女は根気強く待った。 「……弾けなかったんだ。ひとつも、自分の弾きたいように」 は、と苦しげに彼は息をこぼした。 何時間も弾いた。楽譜を手に入れられるかぎり弾いた。一日だって練習をしなかった日はなかった。弾こうと思えば、「超絶技巧練習曲」とて無謀ではなかっただろう――技術だけならば。けれど、 「おれの指は、一度だっておれの思うとおりの音を出してくれなかった」 君のピアノは技巧的だね、という言葉は、いつしか褒め言葉ではなくなった。それはある意味、面と向かって下手くそと怒鳴られるよりもつらいことで、正直何度か泣いた。そうして理想に手をかけるだけの才能が自分にはないのだと知った時、ピアノをやめたのだ。 君がうらやましいよ、と彼は自嘲ぎみに笑った。彼女の歌を聴いたことがある。たしかブラームスだった。耳にやわらかなアルトの歌声が、彼は好きだった。 それまでだまって彼の話を聞いていた彼女は、その時ふと立ち上がってぽーん、と鍵盤を叩いた。音の具合をたしかめるようにもう一度C音を押さえてから、慣れた手つきで「Amazing Grace」を弾く。いくらか小さめの音の中、彼女は馬鹿だねと彼をなじった。 「馬鹿だね。わたしがいつも思うとおりにうたえてるなんて思ってたの?」 だとしたら、それってすごい勘違い。彼女の声は、セリフとは裏腹に弱々しく、泣き出しそうだった。 「泣くなよ」 「泣いてない」 「嘘だ。……本当に、泣かないでくれ」 あせる心が、彼に彼女の名前を呼ばせた。鍵盤の上をゆきつもどりつする、ほんの少し前まで自分にぬくもりを分け与えていてくれた彼女の手に、今度は彼自身がぬくもりを与えるべきだと思った。けれどもそうして彼の指先がふれると、おびえたように彼女の手はふるえた。部屋に、耳障りな不協和音が落ちた。 いつくしみの音楽がとぎれると、彼女はほとんど子どものように無防備に見えた。その弱々しさを、どうしようもなく愛しく思った。彼が、鍵盤に指を置いたまま立ち尽くす彼女を背中から抱きしめると、彼女はもう一度、君のピアノは好きだよ、と言った。 「でもショパンは似合わないかな。というか、わたしがあんまり好きじゃないんだけど」 彼女の声はふるえてはいたが、もう笑い混じりになっていた。そのことに、彼は少しだけほっとした。 「Amazing Graceは好きなんだ?」 「ありがちだけどね、やさしい感じがするから。あと、ドビュッシーとか」 それはそれは、と彼がおもしろそうな声を上げると、上体をねじって彼女は振り返った。なにが言いたい、という無言の問いと額をねらう彼女のこぶしに、彼は今度こそ笑った。すでに部屋にみちていたわだかまりは、どこかに消えていた。 「おれもドビュッシーは好きなんだ。よく、弾いたよ」 まだ弾けるかもしれない、という内心の言葉を聞いたわけでもあるまいに、彼女はじゃあ、と彼の腕を抜け出して、ピアノピースをひとつ探し出してきた。ドビュッシーの「月の光」。ピアノの前に腰を下ろしたままだった彼にそれを手渡すと、彼女は部屋にひとつきりの窓をふさいでいたカーテンをさっと開けた。防音ガラス越しに見える夜空には、ちょうど月が見えていた。満月に一夜足りない、少しいびつな月だった。電気などつけているのは無粋に思えた。彼は電気を消し、楽譜を譜面台に広げた。月明かりでは楽譜は読めなかったが、たぶんまだ、指が曲を覚えている。 ふと窓の方を見ると、彼女はまだそこに立っていた。ぼうとした光にきゃしゃな身体の輪郭だけをあらわにした彼女を、彼はうつくしいと思った。思わずきれいだ、とつぶやくと、彼女はわたしもそう思う、と笑った。彼女が、彼は月のことを言っているのだと思っていることが、それで知れた。けれどもあえて本当のことを言おうとは思わなかった。 彼は丸い指先で、「月の光」を弾いた。いつか自分の弾くピアノで、彼女が歌をうたってくれればいいと思いながら。 F.Chopin「夜想曲第20番嬰ハ短調」 F.Liszt「練習曲第5番変ロ長調『鬼火』」 J.Brahms「ワルツop.52『愛の歌』」 「賛美歌第2編167番『Amazing Grace』」 C.Debussy「ベルガマスク組曲より『月の光』」 |
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