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三年間使い込んだチューバが、ずっしりと肩に重い。手が汗でぬめって、私は譜面代を取り落としそうになっていた。真っ正面の机に置かれた楽譜が、レスピーギの『ローマの祭り』の楽譜が、ただひたすら沈黙している。 一二七人の部員が、みんな泣いていた。一年生も二年生も三年生も、いつも部員を怒鳴り散らす鬼の広沢部長も、つい数十分前に笑顔で指揮棒を振っていた顧問の中込先生も、みんな泣いていた。 私はバスパートの下級生を必死でリードするあまり、舞台裏に引っ込むなり酸欠に陥って、さっきまでずっとノックダウンしていた。それでも、吐きそうになりながら、私も泣いていた。 負けたのだ。私たちの学校は、宿敵の王寺高校に関東大会で敗れ、今年全国大会への切符を手にすることができなかった。 そしてその日、私の高校生活は終わりを告げた。 岸本、と小さく声をかけられて、私はトラックにチューバを押し上げる手を止めた。振り向くと、去年の今日までは毎日顔を合わせていた人がいた。 「横瀬先輩、お久しぶりです。……来てたんですか?」 あとの搬入を下級生に任せて、私は横瀬先輩に頭を下げた。先輩は手首のブレスレットをちゃらちゃらと鳴らしながら私の挨拶を押し止め、広沢に招待されたんだと、まるで言い訳のように呟く。 広沢――カナコは今年もウチが全国大会に行くのだと息巻いていたし、自信も満々だったから、先輩たちを招待したんだろう。結局アダになってしまったわけだけど。 つくづく、自分たちが情けない。 私は溜息を吐いて、そしてふと、彼のブレスレットに目を留めた。 横瀬先輩は当時バスパートのパート長、腕にも指にもアクセサリーをしない人で、一度その理由を訊いたことがある。ぶつかったら楽器を傷めるから。小学校から吹奏楽部に所属していたという吹奏楽マニアな先輩は、どうしてそんな簡単なことを訊くんだと言わんばかりにきょとんとしていた。 そんな立派な主義を持った人だったのに、やっぱり大学生にもなると、野暮な先輩にも色気というものが出てくるのだろうか。そんな失礼なことを、ちらりと考えた。 「お前、目敏いな」 先輩は私の視線を辿り、自分の手元に行き当たることを知ると、苦笑いして私から目を逸らした。そして少し頭を振って、何かの決心を付けたようだった。 「俺、吹奏楽やめたんだよね。大学入るとさぁ、忙しいじゃん。教員養成だし。どうしても時間なくてさ、……言い訳だけどさぁ」 そう告白する先輩は、意外なくらいにあっさりとしていた上に、笑顔だった。 もっと辛い顔をしてほしかったのかもしれない。人生の一大決心だったんだとか、そういう説明をしてもらいたかったのかも、しれなかった。 でも先輩の言葉は素っ気なくて、私はだから、無理矢理話題を変えた。 「今日の演奏、どうでしたか」 ああ、でも私は、どうでもいい会話を選ぶのが苦手なのだった! 負けた後輩の演奏について、どうでしたかなんて訊かれても、先輩だって困るだけだろう。要するに私たちは負けたのだから、演奏中に欠点なんて、いくらでも目に付いただろう。 でも先輩は、良かったよ、とぽつんと言ってくれた。 「俺はバスパートだったから、どうしてもそこばっか見るんだけどさぁ、岸本がすげーがんばってて、一年二年リードしてたじゃん? ローマは低音キツいし、そこそこがんばっとけばいいのに、そこが偉いと思ってた。俺ならほっといてるよ」 そこで先輩は、他のパートもフォローしなきゃならないと思ったのか、慌ててあそこが良かったとかここはちょっと音割れがとか言っていた。 でも私は、実はそんなことは聞いていなかった。私の頭の中には、先輩が認めてくれたということだけが、心臓のばっくんばっくん鳴る音と一緒に、身体中を回り続けていた。 横瀬先輩、先輩はどうしてそんなに、私をうれしくさせるんですか? これじゃあコンクールに負けたっていうのに、うっかり笑いながら家に帰っちゃいそうです! 「ユキぃーッ、搬入遅いー!」 鬼の部長が私を怒鳴り、私はようやく夢から覚めた。 「岸本、大学は?」 「横瀬先輩と同じところに行きたいです。私も先生になりたい」 先輩の通う大学は、私の家から一番近い国立大学だった。吹奏楽と合唱が盛んな大学で、私の志望理由の半分はそれだった。 でも、ちょっと偏差値が足りないんですと正直に言うと、先輩はそんなのはこれから勉強すればどうにでもなると、笑って言ってくれた。実際、先輩が勉強を始めたのは、去年の全国大会が終わってからだったという。がんばれば、確かに私にだって不可能な志望校じゃないのだ。 そろそろ電車が、私の乗換駅に近付いている。 「俺やっぱりさぁ、吹奏楽もう一回やることにしたわ。まだ家にチューバあるし」 「え」 車内アナウンスが駅への到着を告げた。がたんと一度大きく電車がゆれて、耳障りな音を立てながら止まった。ドアが開く。私は人混みに流されて、ずるずると外に押し出された。 「先輩、横瀬先輩?」 私は理由を訊きたかった。先輩が、もう一度吹奏楽をやる気になった理由を。 あっけなく閉まったドアの向こうで、先輩が笑っていた。去年までチューバを吹いていた唇が、何か言ったようだった。岸本、私の名前を呼んだ。それだけはわかった。 電車が走り去り、日が落ちてもまだ続く熱気が、ハイソックスの足下にじんわりとまとわりついていた。
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