彼はひとりきりで流れを上り、藻を食んで岩を越えた。水はつめたく澄み、時々けものや鳥が他の、もっと小さな種の魚を獲ってはさざなみを起こしたが、彼は岩陰やからんだ藻の影に身をひそめる技に長けていたので、生き延びることはたやすかった。
だが自分はなんのために生きるのだろう? きょうだいたちは対の相手を見つけたが、彼は孕むものでもなく、孕ませるものでもなかった。彼は種としては出来損ないであり、そうした類の本能のうすい個体だった。
それでも彼は河を上り続けたが、ある時河の神が現れてこう言った。
「お前を人の姿にしてやろう」
その娘はトゥレシと言い、お前の名はなんだと彼に問うた。彼は名を持たなかった。彼と彼のきょうだいたちを個体として区別する必要はなかった。
「わからない、ひとは、イオとかケイジとかいうが」
「イオ。それならそれがお前の名だ。わたしもそうお前を呼ぼう、ね、イオ」
トゥレシは続けて、イオはどこから来たの、と言った。イオは足元の流れを目で追い、そのはるかかなたをすぅと指さした。彼は『そこ』から来た。それはずいぶんと長い道のりだったのだが、トゥレシや今のイオが持つような身体であれば、もっとずっと近い場所なのかもしれなかった。
「うみ、だ。イオはそこからきた」
「海辺の村? ちがう、お前の顔はそこでは見たことがないよ。……でもイオは倭人でもないね、おかしなやつ」
イオには『村』という言葉が理解できなかった。トゥレシに問うと、仲間のおおぜいいるところ、と教えてくれた。それならばイオはもう村を持たないのだ、と彼は思った――きょうだいはもういないのだ。
「イオのむらはもうない。みんなしんでしまった」
するとトゥレシは少し目を見開いて、かわいそうに、とつぶやいた。そっとイオの頭にのばされた彼女の手はほそく小さく、背さえもイオよりずっと低かったが、トゥレシはひどく大人びた娘だった。
「イオはすこぅし神さびているから、生き残ったんだね。わたしと同じ」
「トゥレシのむらもなくなってしまったのか」
いいや、とトゥレシは首を横にふった。
「わたしは巫女だから。山や河の神々と話すのが役目だ。イオもそうじゃなかったのか」
イオは少し考えて、『見た』ことはある、と言った。自分の見たものがなんと呼ばれるものなのかは知らなかったが、『神』とトゥレシが言ったその名は、あれにいかにもふさわしいもののように思えた。トゥレシは、それが巫女だよと笑った。
トゥレシはイオの手を引いて、彼を村へと連れ帰った。そうして知らぬ間に、イオは村のはずれにあるトゥレシの家で、彼女と二人で暮らすことに決まったらしい。イオは猟のやり方も食べられる草の見分けも、そうしたものと交換するような細工物の作り方もなにひとつとして知らなかったが、その代わりに彼は巫女だった――少なくともそうしたものと思われていた。トゥレシなどは、山でくさびらやユリの根、あるいは色々の木の実を探す技に長けていて、そうでなくとも村の人びとは彼女に供え物を欠かさなかったが、生きてゆくにはこまらなかった。
二人はそうして四つの季節をすごした。
背に負ったかごをよいしょと抱え直して、獣道をたどる。人の中での暮らしにもとうに慣れ、イオにも野山に分け入り食べられる草をつむことくらいはできるようになっていた――それはもちろん、ひとえにトゥレシのおかげなのだけれど。
そうと知らぬ間に川の水はつめたく冴えわたるようになり、山の木は黄色く赤く色づいた。そうして季節の変化が目にも見えるようになると、トゥレシはしきりとくさびらが食べたい、とこぼすようになった。イオと出会ったあの日もそうだったように、トゥレシはしばしばくさびらをもとめて山へと分け入るようだった。
「イオがゆこう。トゥレシはむらでやくめがあるのだろう。だからイオがトゥレシのために、くさびらをさがしてくるよ」
そう笑いかけることができる程度には、イオはトゥレシが好きだった。それはかつてどうしても覚えることのなかった本能とはちがうように、イオには思えた。これはもっとふくざつな、たとえばかんじょうとかトゥレシがよぶものだ。
落ち葉を踏みしだいて斜面を上りながら考える。そう、イオはトゥレシが好きだ。だが、イオはトゥレシとはちがうものだ――彼は孕まず、孕ませることもできず、そも人でさえない。ならば知らぬふりをするがよい思いなのだろう。イオにはどうしてもトゥレシがほしいというような、強く彼の身を滾らせるような衝動はなかった。ただ彼女が笑っていてくれればそれでよいと思えた。
くさびらでかごがいっぱいになると、イオは飛ぶようにして山を下った。考えごとの間に、思いのほか奥深い場所まで足を踏み入れてしまっていたようだった。
そうしてようやくイオは細い川に行き当たった。それは四つ前の季節、つまり今から数えて一年前、彼とトゥレシが出会った場所だった。ふとなつかしい気分になる。人と同じ姿になってトゥレシに想いをよせてなお、イオは澄んだ水の流れが好きだった。
でもトゥレシはイオをまっている、だからはやくかえらなくては。ふふふと笑ってきびすを返したそのとたん、イオはひょうふ、と空を切る音を聞いた。どづ、と身体がにぶく肉を切る音を聞いたと思った時には、イオの左胸には鷹の羽根を使ったみごとな矢羽が生えていた。
世界がくるりと回転し、イオは無様に川の中にばしゃりと倒れた。水は甘く、それは彼が何よりもなじんだもので、つめたさなど気にはならなかった。横手の藪がざあとゆれ、数人の男が弓矢と鉈をたずさえて姿を見せた。
イオは彼らを見たことがあった。トゥレシの家に何度か、供え物を持ってきた男たちだ。中でも際立って背の高く、りっぱな男が口を開いた。
「トゥレシはお前と夫婦になりたいと言った。彼女は村の巫女なのに」
「イオ、は……そん、な、しらな――」
「お前は悪くはない。だがトゥレシが巫女でなくなるのはこまる」
男たちは謝りはしなかったが、山の神と河の神に短い祈りをささげて村へともどって行った。イオは水の中に倒れたまま、それをぼんやりとながめた。
特に恐ろしいことも、哀しいこともない。イオはそうした感情など知らなかった。だが、ああ、ひとつだけ心残りというのなら、トゥレシがイオを待っている。イオはもうトゥレシのところには、かえれそうにないけれど。
どのくらいしたころか、彼はイオ、と彼を呼ぶ声をかすかに聞き、そうして自分がイオと名づけられたのだということを思い出した。その名はだれがつけたのだったか――人の娘だ。トゥレシといった。
ばらばらにほどけていた『イオ』が彼の中からふたたび拾い上げられ、組み立てられてゆく。のろのろと目を開くと、トゥレシがイオの頭を抱きかかえてはらはらと涙をこぼしていた。そのしずくは川の水にも勝るほど甘く、後から後からそれをあふれさせて止まないトゥレシの目を食んでしまいたい、とイオは思った――思って、少し笑った。なるほど、これがきょうだいたちばかりが知っていた、本能か。
「イオ、イオ、お前を殺したのはだれ? この矢羽がだれのものか、わたしは知らない!」
ぎゅう、とひときわ強くイオの頭を胸にかかえるトゥレシはひどくよわよわしく、イオはそんな彼女を知らなかった。イオは手をのばして彼女の頭をなでてやったが、そうするとトゥレシはひぃ、と喉の奥で悲鳴のような泣き声を鳴らした。
「イオは、し…しぬ、のは……こわく、ない」
でも、とほとんどささやくようにイオは言った。
「ひと、ひとつ、だけ――トゥレシに、た、のみが、……」
そうして娘がうなずくと、彼はもとの姿にもどった。彼は『神の魚』だった。娘は河の神に祈りをささげて彼を食らい、銀の鱗と水の中でも呼吸のできる身体をさずけられた。
さて、『神の魚』である娘が川へと身をおどらせると、娘の鱗の一枚がはがれ、それがふたたび彼となった。彼はもはや完全な『神の魚』であって、娘を孕ませることができた。
それで二人は子をなしたが、そののち、河の神は夜の空の神に願い、彼らを空の星のひとつにしたという。
――終。
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